戦後ジェネレーションを考える 其の一
はじめに
戦後も60年余を過ぎ戦後生まれも3世代が同居する時代となり、このところTVや本でも世代と世相の移り変わりをテーマとして取り上げるものも増えた。激動の時代といえば今の時代だけを指すものではないにしても、物心ともにこれほど大きく変化をし、これだけの期間(60年)に多くのゼネレーションギャップを生んでいる時代もないと思う。
何かを考えるときそれがどの様に発生し、どの様な過程を経て今日に至るのかを知ることは大切である。高尚なことは言えないにしても、吉田拓郎の歌ではないが「今日までそして明日から」をチョット考えて見たいと思う。
戦中、戦後生れ
1941年(昭和16年)太平洋戦争開戦の年に生まれた方は現在65歳となり、1945年(昭和20年)の敗戦の年に生まれた方は61歳となる。とすれば、今の70歳前後方々は、丁度国民学校(小学校)に入学し、小・中学校を戦中・戦後の大変厳しい時代を生きぬいてきた方々だ。60代半ばぐらいの方々も、物心のつかない幼児期に戦争が始まり、同じく厳しい時代を潜りぬけてきている。
共通していえることは、大変な食糧難の中、貧しさやひもじさを噛み締めてきたということである。当時の話を聞くとカボチャとサツマイモは必ずといっていいほど出てくる。そして、敗戦という経験を通して世の中が激変を遂げていくことを幼・小・青年時代を通じて原体験として持っている世代だといえる。
昨日までと今日から
1945年(昭和20年)敗戦直後の9月文部省は、全国の学校にいわゆる「教科書の墨塗り」の通達を発している。「日本は戦争に負けました。今までの教えは間違っていました。」と学校の先生に言われ教科書の指定された所を墨で黒く塗りつぶしたそうである。
このことは、今まで正しいとされていたことをある日突然否定されたということで、教育内容は勿論、価値観の根本さえも修正させらたことになります。これについては以前TVで作家のなかにし礼氏が、今まで「○○だ」と言っていた大人がいきなりこれからは「△△だ」と言い始め、大人や社会に対する不信感を持ったというような話をしていました。まさに「何を信じていいのやら」という心境だったのではと察するところである。「今日から民主主義」「今日から男女同権」「今日から自由平等」が一気に始まったのである。
学制改革
この頃、学制改革も進められた。学制改革とは、学校の制度、特に学校の種別体系を改革することである。日本では、第一次アメリカ教育施設団の調査結果によりアメリカ教育使節団報告書に基づいた教育課程の大規模な改編のことを指す。
学制改革とはいっても現に在学している生徒がいるので、いきなり学校の変更は混乱を招ため、さまざまな移行措置がなされ、1947年(昭和22年)年から1950年(昭和25年)頃までは旧制と新制の学校が混在していたという。
この時代は「今までの教育」から「新しい教育」への移行期でもあり、墨塗りの教科書を含め、教育内容の違いによって年齢が2?3年違うだけで価値観も変化にとんでいるという指摘もある。
例えば、昔は「男女7歳にして席を同じゅうせず」というという古い考え方がありましたが、女学校から新制の中学校、高等学校への移行期あたる中心世代は、現在の71歳ぐらいから下の人たちで、最初から男女共学の新制高等校へ通うことになったのは67歳ぐらいから下の人たちである。
いずれにしても昭和20年代に10代だった人は、正に戦後教育が内容・制度ともに大転換をしていく真っ只中にあったといえる。
少年時代
1941年(昭和16年)太平洋戦争開戦の年に生まれた方が10歳に、1945年(昭和20年)の敗戦の年に生まれた方6歳になった、1951年(昭和26年)にはこんなことが起きている。
前年には、朝鮮戦争が勃発しそれに伴いアメリカ軍への物資供給により、日本経済は息を吹き返した時でもある。朝鮮特需、特需景気といわれるものだ。
この年は、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本は占領下から独立を果たした年である。また、日本の占領政策を指揮したマッカーサー元帥が、トルーマン米大統領によって突然解任され、帰国後の米議会上下両院合同会の演説の最後で「私は兵営の歌の繰り返し文句をまだ覚えている。その文句は非常に誇らしく次のようにうたっていた。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。あの歌の老兵のように、私はいま軍歴を閉じて、ただ消えていく」と語った。帰国の日には羽田空港までの沿道で20万人の人が見送ったそうである。この 「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」は流行語となり今でも時より使われている。
また、民間ラジオの放送が開始された。初のコマーシャルは服部時計店(現在のセイコー)による「精工舎の時計がただいま7時をお知らせしました」という時報アナウンスだった。
青春時代
昭和20年代に青春時代を迎えた方と昭和30年代に入ってから青春時代を迎えた方では、時代の変化と共にその過ごし方も大きく変わったようだ。
昭和20年代では、子ども組、若者組(娘組)、青年団といった活動は珍しくなかったという。お祭りやコーラス、お茶飲み会等が日常の楽しみだったようである。
しかし、昭和30年代に入ると地方と都会では差があるにせよ様変わりを始める。昭和30年は、民主、自由の両党はそれぞれ解党し、保守合同として自由民主党を結成し、右派社会党と左派社会党が昭和26年の分裂以来再統一した年であり、いわゆる55年体制が始まった年でもある。
経済状況は、第一次高度経済成長期が始まり、爆発的な好景気を生んだのもこの時期であり、神武景気とも呼ばれている。翌年の「経済白書」で「もはや戦後ではない」という言葉が使われ、流行語になった。
社会面では、石原慎太郎現東京都知事が執筆した「太陽の季節」が第1回「文学界新人賞」を受賞し、翌年には「芥川賞」も受賞することとなる。当時22歳であった学生作家が、戦後新世代のモラルや風俗を描きだしたのである。これにより、「太陽族」「慎太郎刈り」等の社会現象まで巻き起こした。当時この本は25万部を売りつくしたという。
1957年(昭和32年)には、ジャズ喫茶からロカビリー・ブームが始まり、ミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎らを輩出し、翌年には第一回日劇ウェスタン・カーニバルが開催され、大きな熱狂を呼んだことは今でもTVで時折紹介される。この年の「国民生活白書」では、サイクリングの流行やゴルフ場入場者の増加が記され、昭和34年には、戦後持ち込まれたアメリカ文化のより楽しく暮らそうとする生活態度の影響が見られ始めたことが特筆された。
1960年(昭和35年)には、日米安保条約が国会で審議入りしたが、国会内外の反対の激化で難航を極めた。社会党、総評、学生などのデモが連日国会を取り巻き、全国で580万人がデモを行ったといわれている。全学連主流派が国会突入をはかり警察官と衝突し、東大生の当時22歳の女性が亡くなった事件は有名である。60年安保闘争の時代である。一方「国民生活白書」では、「最近生活意識が変化し、生活を楽しもうとする気風が高まるにつれて、余暇をいかに使うかというこが考えられるようになった」としている。この年の流行語に「レジャー時代」が挙げられているのが象徴的である。また、未婚女性が結婚相手の男性に希望する条件として、相手の両親との別居を望む女性が急増し「家つきカーつきババア抜き」という言葉も流行した。「核家族」という言葉がマスコミに登場したのもこの頃といわれている。
親の世代
1960年(昭和35年)に子供を生んだ女性に関する、国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、現在の70歳?71歳とされている。つまり、1960年(昭和35年)以降生まれの現代の親の親は、戦前とは全く違った意識や価値体系を持ち始めた最初の世代ともいえる。
「新人類」とは、筑紫哲也氏が1984年(昭和59年)?1987年(昭和62年)に、10代から20代のの若者たちとの対談を通じて、生れた言葉とされ、1986年(昭和61年)には新語・流行語大賞に選ばれている。そしてこの「新人類」といわれる世代は1980年代前半に成人した若者たちのことを指す。1980年(昭和55年)に成人式を迎えた方の生れた年は、1960年(昭和35年)となる。教科書墨塗りの体験者以後の新しい教育を受けた世代の子が、現在の小・中・高校生の親世代(40代)の親であるという関係が成り立つところが興味深い。
とりあえず其の一として。