「昭和30年」を見つめる其の一
昭和30年は、戦後10年目の年にあたり、政治的には大きな対立があったものの、日本の社会は経済的には飛躍を遂げていく年になる。31年に経済企画庁が発表した経済白書に30年を「もはや戦後ではない。回復を通じての戦後は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」と称した言葉は有名である。この経済の飛躍は神武景気とも呼ばれ、神武以来つまり日本が始まって以来という意味で表現された。
政治的には保守合同による自由民主党の設立、左右社会党の統一がなされ、戦後の2大政党が誕生し、いわゆる55年体制がスタートを切った年でもある。戦後の日本は、政治結社の自由がなかった反動か多くの政党が乱立していた。大まかに大別すれば、保守と革新だが、政党の乱立は政局を不安定にさせる要因ともなり、政策の実行にスピード感を失わせていた。お互い政権を担おうとするならば、根本に共通点を見いだせるならば大同団結をしたほうがよいということで、保守・革新ともに話し合いをした結果だといわれている。しかし、この対立も互いの政党の歴史観や世界観がまったく違っており、話し合いでの解決が困難を極めていた。
政権を担っている自民党は、新たな政治体制を確立することを目指し、小選挙区制法案、新教育委員会法案、教科書法案、憲法調査会法案、警察官職務執行法改正案、日米安全保障条約改正案といった、与野党が真っ向から対立する法案を昭和30年から35年にかけて次々に提出していった。このため、国会は常に激突模様だったようである。当時、自民党は資本主義体制を守るアメリカ寄り、社会党は社会主義体制を目指すソ連寄りといわれ、国内の政局は国際関係の縮図が持ち込まれていたといわれている。ベルリンの壁ができたのは36(1961)年で、60年安保闘争の翌年であり、米ソの対立がピークを迎えていたころでもあった。
相反する政治思想は、国民の政治的認識にも大きな影響をもたらした。学生の中にも様々な運動が展開され「闘争」という言葉が時代の象徴でもあった。いい悪いは別にしても政治的にエキサイティングな時代だっといえよう。現在は、55年体制の崩壊にともない政党の模様替え、乱立を経て、また新たな2大政党の時代を迎えようとしている。国策の根幹にかかわる憲法や国防政策、教育基本法といった重要課題も政治日程に上がりつつある。しかし、選挙の度に低下する投票率等をみるとエキサイティングな時代の再来とはいえない。司馬遼太郎が亡くなる前の対談の中で「この国はもう峠を過ぎたのではないと慨嘆し、この国にこれからあるのはただ静かな停滞だけだ」と言っていた。日本がこれを回避する能力や感性をまるっきり失ったとは思わないが、混沌とした社会の中で閉塞感や無気力感が漂っているのも事実だと感じる。