「昭和を見つめる」其の四
日本の陸軍は、明治2年に大村益次郎らによって作られ、それから50年余を経た昭和初期の陸軍指導部は、エリート意識が強かったといわれている。
昭和史や近代史の中で陸軍の暴走が指摘されるが、軍人も大まか二通りに分ける事ができる。
明治から昭和20年まで男子は20才になれば徴兵検査を受け、合格すれば国民の義務として兵役を受けた。これは一般的な庶民が対象であった。
一方、職業軍人といわれる集団がある。職業軍人の場合は、コースが決まっていて、高等小学校卒業時か旧制中学1年終了時に陸軍幼年学校の試験を受ける。この試験は難関で村の神童とか村一番の秀才といわれる人間が受けた。その後、陸軍士官学校に進み、少尉として陸軍に入っていく。そして、中尉から大尉になるころ、所属する連隊の連隊長の推薦を受け、陸軍大学の受験資格を得る。ただし、これも狭き門で毎年50人の陸大生を生むに過ぎず、この50人は陸軍内の超エリートとなって行く。
陸大生にも成績によって特権があり、6番以内の者は軍刀組といわれ、陸軍省軍務局、参謀本部作戦部といった要職に就き、日本陸軍の政策や作戦計画を立てる特権が与えられる。一口に「軍」といっても、その中身は多様な構成の中で組織されていた。
陸軍指導者たちは、昭和5年から6年の農業や工業の恐慌等の社会の混乱は政党政治や財閥に問題があるとし、陸軍が主体となった軍事政権を樹立し政治を行えばよいと考えていたようである。
しかし、「破壊が必要だ。建設はそのあとでいい」といった井上日召の言葉に代表されるように、そのために本当に必要な政策は何であるのかといった議論は少なかったようである。
目的と手段の取り違えといったことだが、現代社会においても改革論議の中では重要な視点といえよう。