「昭和を見つめる」其の三
1929(昭和4)年、ニューヨークのウォール街で株式市場の株価が大暴落し、銀行や工場はつぶれ、農作物の価格も急落し、失業者が街に溢れた。こうした混乱は世界中に広がり世界恐慌を引き起こした。
昭和の初めの日本は、経済基盤が弱く海外市場での競争力は低かった。海外市場での競争力を高めるには、日本製品の低コストに抑えなければならなかった。それには、安い労働力の確保、資源を安く入手することが必要となる。石炭等の資源が豊富にあった満州の権益に固執したのはそのためであった。
当時アメリカ、イギリス、フランス等は金本位制を採っていたが、日本は金輸出禁止政策を採っていた。金本位制を採るには、財政を緊縮し国民消費を抑え、産業の合理化を図る荒治療が必要であった。
昭和5年1月11日、浜口雄幸(おさち)内閣は、金解禁(金本位)という財政政策を実施した。この時の蔵相が井上準之助である。井上財政は緊縮財政といわれ、いまでも財政学の研究対象になっているようである。
理論的に整合性を持った政策であっても、それに見合う社会の体質や国民の理解がなければうまくはいかない。状況としては、この大胆な緊縮財政に耐えられるような知的な理解や人々の生活状態は整っていなかった。
ニューヨークのウォール街で株式市場の大暴落を受け、日本の生糸や綿糸の需要は大幅に減り、日本の業者は相次いで倒産にみまわれた。これに伴い養蚕農家は現金収入が途絶えていった。
米作農家は豊作が続く中、小売価格の下落を受け豊作貧乏となっていた。この頃、農家は農業の近代化を図るため、農薬や農機具の借金を背負っていて、生活は極度に悪化していった。
アメリカの不況と金解禁政策が同時期に重なったため、日本経済はどんづまりになった。昭和5年の輸出額は前年度対比40%以上の減なり、購買力も衰え輸入も40%減となった。そして、3億円分の金は一方的に流出し、円は世界でもっとも弱い通貨となってしまった。
昭和6年には、日本は経済的に壊滅状態に陥る。ただ、この時期の不況は日本に限ったものではなく、アメリカも不況に喘いでおり、ヨーロッパの先進諸国も不況が襲っていた。
しかし、各国にはそれぞれ状況の違いがあった。イギリス、フランス、オランダ、スペイン等のようにアジアやアフリカに何十年、何百年と植民地をもっていた国は、この不況に対しそれほどの痛手を受けてはいない。植民地の原材料と労働力で製品をつくり、それを世界の市場で売り、その利益は本国で吸収するのだから、本国の人々の生活はそれほど苦しくならない。そうした世界情勢の中で、1930(昭和6)年代は、植民地をもつ国ともたない国の対立という構図が生まれてくる。