世代と価値観について考える
団塊世代と団塊ジュニア
戦後10年が経過し、政治の世界では1955年に保守合同がなされ、それからの20年日本の社会は、みんなが豊かになることを目指し高度な経済成長をとげました。「豊かになるために働く」という、大きな潮流の中で育ったのが団塊世代とよばれる人たちです。
1970年には、大阪万博が開催され、1975年以降は、高度経済成長を通り過ぎ、既に豊かになっていた時代であり、「豊かになるために働く」という意識は希薄になっていったといえます。こうした時代背景の中で育ったのが「団塊ジュニア」とよばれています。
インスツルメンタルとコンサマトリー
手段重視の価値観を社会学ではインスツルメンタルといい、その逆で手段を重視するのではなく、それ自体面白いことを求める価値観をコンサマトリーというそうです。
これまでは働くとか勉強することがインスツルメンタルな行為だったのが、「団塊ジュニア世代」が働きだす頃から、それ自体が面白いからするコンサマトリーな行為に変わってきたといわれています。
団塊世代以前の親は「自分は貧乏だから子供は豊かにしてあげたい」と思ったが、それ以降の親は「自分はインスツルメンタルな人生だったが、子供にはコンサマトリーな人生を歩ませたい」と思う人が増えたといわれ、親もそういう世代になってきていることが、その子どもたちの人生観、勤労観に影響を与えていると感じます。また、団塊世代以降の親は、あまり勉強しろといわなかったようです。くだらない受験勉強で、失ったものもたくさんあるというか、その時間をもっと別のことに使えばよかったという気持ちがあり、子どもにはその選択肢も残してやりたいという思いがあるそうです。
インスツルメンタルとコンサマトリーでいえば、今の若者は5対5か4対6でコンサマトリーが勝ち、団塊世代は7対3ぐらいでインスツルメンタルが勝ち。昭和ヒトケタ世代は9対1でインスツルメンタル。
昭和ヒトケタ世代は会社でも家でも厳しく。会社では厳しくても家では甘いのが団塊世代、会社でも家でも甘いのが団塊ジュニアといえるでしょう。
世代にみる母の役割
今の50代は専業主婦率が最も高い世代といわれ、いわば「母親」から「主婦」になった世代といえます。昭和ヒトケタ世代の「母親」という言葉のイメージは、いつも働いていて、子どもの世話をする暇、遊ぶ暇などない人。子どもが泣いたらおんぶして、家事をする人のようです。
一方「主婦」は、家電によって家事が省力化され、1日何時間かは暇ができて、たまにはケーキを焼く暇もあるという人。今の65歳以上は、恐らく結婚当初には家電が揃っていなかった。それに対して新婚道具として家電が曲がりなりにもあり、アメリカ的なあこがれの「ママ」である専業主婦が最も多くなったのは、今の50代でしょう。生産力、労働力としての母親ではなく、消費生活としてのマイホームでの幸福感の演出家としての役割に変わったともいえるでしょう。
学歴志向
世代によって高学歴志向の意味合いの違いを感じることがある。若い世代になるにつれ、貧乏から抜け出すためというよりは、ブランドとしての高学歴志向が強いのではないかと思います。学歴が自己目的化してきているともいえるでしょう。
学歴自体の自己目的化は、団塊世代の女性で強くなったといわれています。彼女たちは進学しようと思えばできた状況だったが、自分には学歴がない。できれば学歴を手に入れたかったと。この世代の女性にはまだまだ進学を阻まれた人がたくさんいます。能力的、経済的状況は進学できたのに、親が「女は進学するものではない」とか、「短大にしておけ」とかいわたそうです。
私はあの人よりも勉強ができたのに、親に金がなく、あるいは親の価値観が古くて高卒で終わった。また大学に進学した人でも、弁護士、医者、教師といった一部の職業についた人を除けば、お茶くみで終わってしまった人が大半で、だから学校人生、職業人生にはいろいろ不満があり。そういう意味で、団塊世代女性は高学歴志向が強くなったのではないかと考えられます。実際に高卒の女性は、大卒の女性よりも子どもを大学に進学させた率が高いという調査結果もあります。
子どもに対し、一方では「自分らしく、自分の好きなことをやっていいのよ」といいつつ、他方では「大学は出てね」という。それが嫌だったという若い人は案外多いようです。二律背反でスッキリしない。「大学なんて出なくたって、立派に父ちゃんも母ちゃんも頑張ってるよ」または「自分らしくなんて甘いこといってるんじゃない、学歴がないとどうしようもない」とはっきりいえることも大切だと思う。
多様性と基本
現代は多様な価値観の花盛りです。しかし、以前も少し書きましたが、多様な価値観を社会が持て余し気味になっているような感じもします。多様であるが基本がない。スタンダードといわれる形がすべて多様である。
世代や個人個人の多様な価値観を否定するわけではありませんが、基本を据え共有できる価値観を持つことも大切なことであると感じる今日この頃です。