本流と逆流
私の家のすぐ近くを天竜川が流れている。川の流れを見ていて「ふと」思った事がある。よく川をみていると本流に対して逆流の流れを見ることができる。世の中も本流・逆流、はたまた横から流れもあるようで、いろんな考え・行動が存在する。世の中の混沌とした流れを見ていると、この流れの源はどこなんだろうと考える時がある。
先人が、物の見方・考え方の基礎としていたものに儒教がある。わりと知られているといえば「論語」等である。日本人は、これらを基礎としながら独自の哲学を、社会情勢の変化の中で磨いてきたといえる。最近話題になる「五輪書」「武士道」等もそれに類するものだと思う。
日本の社会が形成され、人それぞれがそれを意識しだしたのは、明治期だといわれる。それ以前で言えば聖徳太子もでてくる。私達の先人は、浜田省吾ではないが、この国の未来に何を賭け、何を夢見たのだろう。今一度、歴史をふりかえり源流を尋ねる事も大切な事だと感じている。
世には評論家という職業がある。そのすべてがそうというわけではないが、逆流にのっかることのみで評価を得ていると感じる人もいる。政治の世界については、更に不可解な事も起きている。とかく小競り合いが目立ち(マスコミの報道の仕方も問題があると思うが)それが増長されているような気がしてならない。
こういうことを川原のの土手にすわって、つらつら考えていると、本流を見極める目をしっかりと養い、流れを生み出す努力を重ねる事に、使命感を感じたりもして、1人武者ぶるのひとつもしたりしている。
政治が極端に左右にまわるとファッショになるとよく指摘される。私もそう思う。本流・逆流を飲み込んで消化していくには、強靭な胃袋が必要だ。胃袋をしっかりと鍛えておかなければパンクしてしまう。
古典の大学にこんなことが書いてある「いわゆる身を修めるのはその心を正すにありというのは、心に怒る情があれば正しきを得ず、恐懼(きょうく)する情があれば正しきを得ず、好楽(こうぎょう)の情あれば正しきを得ず、憂患(ゆうかん)の情あれば、正しきを得ないということです。心がその正を失えば、視ても見えず、聴いても聞こえず、食べても味がわからないのです。ゆえに心を正しくしてもってその身を修めなければなりません。」
なんでもありみたいな世の中ので「多様化」という言葉で衣を着せて、この「正しき事」を「じっくり」考えることが今は少なくなってきているのではと感じている。「じっくり」そして「しっかり」源流を見つめる努力が必要だと思う今日この頃です。