変える勇気と変えない誇り 其の五

郷土愛の心
私達の人生像・社会像を具体的縮図のように描き出しているのが「地域」というものかもしれない。今時「地域」なんて言葉は死語にちかいもので日常会話の中では、ほとんど使わないし、あまり意識もしないものになっている。しかし、マスコミによって報道される多くの事柄が、身近なこの「地域」の中でも読み取ることができる。先行き不透明な混沌とする社会の中で、自らの人生の意義を確かなものにするには、今一度「地域」を捉え直し、立て直すこと、古臭くいえば「郷土の生活の意義」を確かなものにしていくことが大切なのかもしれない。
私達が国や社会を憂うのなら、その最も具体的で確かな方法は、郷土に尽くすということなのかもしれない。傍から見ればバカバカしいほど、郷土愛を至情に生きている人は、人や地域・国・人類をも愛する事ができる人だと感じる事が多い。人それぞれの人生は、決して傍から見るほど平坦な存在ではない。味わえば味わうほど深淵不可思議な存在で、それを最も味わい得る人生は、郷土を背景として成り立つ私達の実生活の中にあるような気がする。
岩割の松
「次郎物語」の一節にこんな場面がある。ある日徹太郎が次郎を山登りに連れて行って、昼のおにぎりを食べる。目の前には大きな岩があって、その岩の上にまたでかい松の木が空にそびえていました。徹太郎はそれを見て「次郎君、あの岩が動いているぞ」といいます。次郎はじっと見ますがいっこうに動いていない。すると徹太郎は「次郎にはわからんね」といって説明します。
「あの松はもともとはなかったんだ。松の種が風に吹かれて岩の裂け目に落ちた。それも運命だね。しかし、松の種には命がある。根を出し芽を出した。そうしてじりじりと岩を割ったんだ。岩も地球の底まではない。とうとう根があの岩をまっぷたつに割ってしまったんだ。それからさきは大地だ。自由に根を張ることができる。こうして松は何百年かかったかしれないが、今、ていていと空にそびえて自由を満喫しているんだよ。今も松は成長をやめてはいないんだ。だから岩は今も松の根によって両方へ動かされていることになる。心の眼でみるとそれがよくわかるはずなんだがなあ・・・」生きるとはこのようなことなのかもしれない。