変える勇気と変えない誇り 其の四
このところ
最近ふるい歌ではあるが「鶴田浩二」の『傷だらけの人生』の歌の文句を思い出す。「古い奴だと思いでしょうが、古い奴ほど新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。♪?何から何まで真っ暗闇よ、筋の通らぬことばかり、右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆のからみあい、どこに男の夢がある?♪」
このところの世相を眺めてみると、なんだかよってたかっていらいらして、とりとめのないストレスのはけ口を汲々と探し求めている人間像が浮かぶ。なんともお粗末であったり、妙に生々しく悲痛な思いを感じる事件・事故が後を絶たない。
今の日本は、落ちついて考えれば考えるほど、不安というより危機感を感じる。これから一体どうなっていくのだろうか、どうすれば良いのだろうか。心ある人は、この状況に悩まざる人はいないと思うのですが、何からどのように手をつけたらら良いのかが不明で、その日その日をとりとめもなくやり過ごしている、といったことが実態ではないだろうか。
温故知新
司馬遼太郎が「日本人にとっては往々、観念の方が現実より現実的でありうる」といっていましたが、戦前・戦後を通し自分達がつくり上げてきた社会体系が発達していく過程で、逆に社会の中で人を強く規制したり、開放したりする状況に対応できず徒に反発するだけの人を生み出してきた。との指摘もあります。
物事を作り上げていくのも一つの醍醐味だが粉砕していくのもまた快楽だと感じるのかもしれない。
今、戦後の様々な社会体系の見直しが行われようとしている「構造改革」もその一つである。「混沌」という言葉が妙にマッチする昨今において、これらが新しき時代の灯かりを燈し得るかがカギとなるだろう。
最近、古人や歴史の本を暇を見つけては読むようになりましたが、本当に教えられることも多く、切実に感慨をおぼえるものがもありました。先人の行動の裏側に隠された哲学。社会状況に憤慨し行動を起こす実践力。また、その行動によって磨かれていく人間性。現在のような混沌とした時代に一つの道標となるべきものが数多くあります。
古典の中庸の中に「道のおこなわれざるや、我これを知れり。知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。道の明らかならざるや、我これを知れリ。賢者はこれに過ぎ、不肖者は及ばざるなり。」という言葉があります。政治の世界において「修己治人」に努めることが大切だと感じています。