変える勇気と変えない誇り 其の一
義を見てせざるは勇なきなり
司馬遼太郎が亡くなる前の対談の中で「この国はもう峠を過ぎたのではないと慨嘆し、この国にこれからあるのはただ静かな停滞だけだ」と言っていました。日本がこれを回避する能力や感性をまるっきり失ったとは思いませんが、社会に閉塞感や無気力感が漂っているのも事実です。
経済成長もバブルを頂点として下り坂となって以来、多くの人は「日本は変わらなくてはいけない」と言ってきた。しかし、「変わるため」の具体的行動を起こす人は言う人よりかなり少ないのが現実です。
「ここが悪い、あそこも悪い、だからダメなんだ」という評論が溢れる中、そこから先の「論より実践」が大切だと思う。具体的行動を起こす人は言う人よりかなり少ないのは現実だが、「論より実践」といった意識を持った人がまったくいないわけではない。実際に行動している人もいる。「義を見てせざるは勇なきなり」こんな行動に光を当てていきたいと思う。
日本人論と価値基準
最近いろいろな本の中で「なぜ日本人はこんなに日本人論が好きなのか」「これほど自分達の行動原理や社会の特徴を知りたがる国民はいない」という一節を目にする。自分の事を知りたがるのは、要するに自分の事がよくわからないからだと思う。これは「自分達の社会の根本を規定する原理原則が存在せず、日本人とは何かというアイデンティティが確立できないでいるからだ」という指摘もある。
このとところ次々に起こる忌まわしい事件・事故を眺めると、そうした実状の中に何か決定的なものが欠けている気がします。犯罪の中にそれを正当化する論理があったり、社会規範に従った正義を唱えればそれは過激だ。ということもそうだと思う。日本丸という船のジャイロコンパスと舵が壊れ、大海の中を漂っているような感じだ。
論語に「子の曰わく、吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六〇ににして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」という言葉がある。自分自身を確かなものとするために「温故知新」の実践が必要だと思う。
人間の絆
かつて、個人の利益と公共の利益が人々の意識の中で、これほど遊離した状況もなかったのではと感じる事がある。ゴミを拾っている横でめんどくさいからと言ってゴミを捨てる人もいる。私達が持ち合わせていた、気持ちや姿勢或いは感覚の中から大切なものがぼろぼろと欠け落ちてきているような気がする。「自分の事だけで精一杯でそれ以上は・・・」「何かに関わると大変」こうした言葉は、本音と建前の中でよく聞かれる。
「日本人は熱しやすく、冷めやすい」ツキモノ、話題が落ちれば、人は周りから去りその人はストンと日常に戻る。「信頼」「不信」が日常の中に同居し、人を一層不安にしている部分でもあり「とりあえず自分のところだけは」という発想も現実的な話でもある。
しかし、物事を見る視点として「できるだけ目先にとらわれないで長い目で」「出来るだけ一面にとらわれないで、多面的にできれば全面的に」「枝葉末節にわたらないで、根本的に」に見れば、個人の利益と公共の利益の共通項の方がむしろ多いなあと考えさせられる事がある。
人は、個と個のかかわり、社会とのかかわり、歴史とのかかわりといった「絆」の存在を意識しなければ、この浮遊したような社会の中で、自分の存在や協力・連帯の意義すら失われてしまうような気がする。今「人間の絆」見つめ直すことは大切な事だと感じる。