「地域」と「子供の成長」について考える

●地域で子供達を育てる
「地域で子供達を育てる」この言葉が近年クローズアップされてきました。しかし、考えてみれば「子供達を地域で育てる」といった機能は、もともとは地域社会の1つの仕組みとして備わっていたものです。例えば現在ある学校の機能にしても振り返れば、1世紀ぐらいの間誕生したもので、かつて子供達も青年達も皆地域の中で育ってきたといえます。
●子供達の生活範囲の広がり
チョット昔を思い起こせば子供達は次のような成長過程を辿ってきたといえます。子供達ははまず家庭の中で育ちます。そして、家庭を少し20?30歩程出ては近所の付き合いが始まります。4才ぐらいまでは、「お?い」といって声の届く範囲、いわば「ままごと遊び」の範囲です。それから興味や遊び・友達の変化、徒歩から自転車へと、すこしづつ生活の範囲、社会と接する範囲を拡大しています。地理的範囲の拡大と群れる(友達)範囲の拡大が、思考・行動に刺激と変化を与えていったといえます。
これらの広がりは円の拡大みたいな広がりで確実に軸(中心)が存在していたように思えます。現在は、点と点を結ぶような直線の本数が増えていくといったイメージがします。
●群れ遊びから巣篭もりへ
子供達の遊び戯れる集団が崩壊し始めたのは昭和37年頃からといわれています。子供達の群れ遊びが崩れてから40年ぐらいの歳月がたち、群れ遊びの経験がない人も相当数いるのではないかと思います。テレビやファミコン・TV・PCの普及により、子供達が家にこもって巣篭もりをするような形での成長がこの40年程の間に加速しながら増えてきたといえます。
この状況と言うのは、現在の子供達だけでなく親世代にも当てはまることで、人とかかわることが苦手で「人間関係をつくる」といったことに関しても、悩みを抱える人が増えているようです。
●「地域」が消える
地域の中で群れながら遊ぶ経験がなくなると、子供達にとって「地域」や「そこに住む人」というフレームが成長過程の中で非常に希薄なものになってきます。
こうなると、人がとらえる「心理的空間」の中で、「地域」というものは余り重要なものではなくなってきます。極端をいうと「地域は他人の住むところ」というようイメージになると思います。
●「子供達の声」が消える
現在、学校は週休2日で土・日はお休みです。子供達の休みの日に町の中で子供達の声が余り聞かれなくなって久しい、少子化の影響もあるでしょうが、他の国を見ても休日に子供達の声が聞こえてこない社会と言うのはどういうものだろうと感じます。
●これからの在り方を考える
子供の成長・発達にとっては、家庭や地域社会の中で、家族や地域社会の人々に囲まれ、親の手伝い等をしながらごく普通の日常生活を送る中で、自然に社会に同化していくことが適切である。と言う指摘があります。
一方、可能な限り早い時期から、目的(理想)に近づくために意図的・計画的に子供を育てる事が重要である。という指摘もあります。
現在のような社会情勢の中では、従来のような多様な人間関係を持つ家庭・地域社会の生活を営むこと自体が困難であり、かつ家庭や地域社会の教育機能の低下という現象が顕著となっても、それを回復する手だてを「家庭やコミュニティーでの生活を人間関係や協力的役割分担という視点から新たに再構築する」という方法には求めようとしない姿勢が見られます。
子供達を育てるといった観点から新たに「総合学習」が取り入れられました。これらは、考えようによっては、地域社会が持っていた「無意図的な人間形成作用」を効率的に効果を高める方法として、意図的に学校教育によって行うものであり、うまく地域社会と融合しコミュニティーや教育機能を再生させるキッカケとなればよいのですが、地域の持つ教育機能の再生どころか、むしろそれらの役割の学校教育への依存度が高まる可能性も考えられます。
たまごが先か鶏が先かの議論になってしまいそうですが、今一度、現状の在り方・行く末について、それぞれが考える必要を感じています。