「昭和を見つめる」其の一

昭和の幕開け
昭和元年といっても、大正天皇が崩御したのは、大正15年12月25日の午前1時25分であり、つまり、31日までの7日間にすぎなかった。実質的に昭和が始まったのは、翌2年からである。
その昭和2(1927)年の年表を見ると、いくつもの憂鬱な出来事が綴られている。
まず、金融恐慌である。1923(大正12)年9月1日、関東大震災がおこり、東京、横浜などの地域は壊滅状態となった。この被害を受けた企業が決済できなくなった手形を「震災手形」といい、市中銀行が日本銀行にこの手形をもっていけば、日銀はこれを「震災手形」として担保に、それに見合う資金を融資していたが、市中銀行の中にはこの手形を決済できないほど経営状態が悪化しているところもあった。
昭和2年3月14日、片岡直温(なおはる)蔵相は衆議院予算委員会で「今日、東京渡辺銀行が破産した」となにげなく洩らしてしまった。この一言により「破産する銀行は他にもある」と噂が噂を呼び、銀行には預金者が殺到した。
この結果、3月、4月だけで預金者の引き出した預金額は7億円にものぼり、これは全銀行の預金額の1割以上といわれている。当時の大卒者の初任給は70円程度であるから、莫大な金額といえる。
この金融恐慌により、若槻(わかつき)内閣は倒れ、かわって政友会の田中義一が首相となり、蔵相には高橋是清(これきよ)が就任した。高橋は就任すると同時に3週間の支払猶予令を発動し事態の収拾を図った。高橋是清は金融機関に一息つかせ、急速に事態を収拾して、わずか42日で蔵相の座を三土忠造に譲った。
この恐慌を機に銀行は整理されていき、その数は600程に減ってしまった。これにより預金を集中した三井、三菱、安田、住友、第一の5大銀行が金融界を主導し、財閥として産業界に大きな影響をもたらすようになる。
この取りつけ騒動は、潰れるはずの無い銀行が現実に潰れていくといった、銀行に対する信頼の欠如、ひいていえば国に対する信頼の損失ともいえる。
昭和初期の「金融恐慌」と現在の長引く不況において、その根底には金融機関の不良債権の問題があるのは言うまでもない。昨今の金融不安ような深刻な事態を招いたのは、単に政府の政策や規制による弊害や、金融機関の経営責任といった単純なものではない。確かにその責任おいて起因した問題もあるが、産業構造の変化や金融自由化といった、経済の枠組みが大きく変化している中で、現れてきているものだと考える。
仮に政府が財政資金を投入して、金融機関、並びに預金システムを保護したとしても、かつてと同じような形で好景気が戻ってくるとは考えにくい。すなわち一過性の現象ではなく、大幅な構造改革を必要としているのではないだろうか。今回は過去の事態を冷静に見ながら、広い視野で捉えたいと考えている。