「日本語きんつば論」と「英語まんじゅう論」

最近よんだ本で、大宅映子さん著作の「いい親にならなくていい!」があります。その中に、おもしろい記述があったのでご紹介します。

日本人は自己主張する時の言葉もみな情緒である。日本の国語の時間は短文をよませて、「作者の裏の気持ちは何か」というようなことばかり勉強して、自分の意見をはっきり表現するという教育をしていない。「男は黙って」「以心伝心」「言わずもがな」「腹を探る」といったお国柄の国語教育らしいと言えばそうだが、しかしこの国際化の時代に日本人同士が、なあなあで目配せして、わかり合っていてももう通用しないのである。まして文化も歴史も全く違う外国に対してものを言うには余程意識して発言しなくてはいけない。「顔が見えない」と言われ続ける理由はここにある。・・・(中略)・・・相手の意見がおかしいと思えば、どんどん突込んでいかなくてはいけない。だまっていたら承認したことになるし、下手をすると考えのない人、とみなされてしまう。ただ日本人は本当に心優しい国民であるから、あまり対立してはいけないと思っているいる人が多い。しかし「対立するのは当たり前」を前提に動き出せばいいと思う。対立しそうになると、みんなで根回しして、会議はシャンシャンシャンと手を打つだけだから、問題点はいつまでもわからない。

感情とは別に言葉で闘うことが必要なのである。日本の場合、言葉であっても闘うとほとんど喧嘩になってしまって、「おまえはそんな考えとは知らなかった」「絶交だ」という話になってしまうが、気持ちとは別の言葉というものもある。私は、「日本語きんつば論」と「英語まんじゅう論」を取っている。英語の場合は感情とは別に外側に言葉という薄皮がついているが、日本の場合感情と言葉がグチャグチャになっているので、感情とは別に言葉だけで闘うことができない。日本以外の国はでは、意見がちがうのは当たり前と思っているから、泡飛ばしてやり合っても「君の意見も成り立つけど、僕は与みすることができない。じゃあまたな」と握手して別れるということは可能なわけである。これからは感情論ではない議論というものをやっていかなくてはいけない。

「事実」か「意見」か、客観的事実と個人の感情とを明確に仕分けることが必要である。

というような内容です。

私も議論をする機会も増えいろいろと考えることがあります。

1つの議題を議論する時に、論点がかみ合わずそれぞれが納得する結論が導き出せない状況になってしまうことがあります。これは、議題の争点が整理されていないとよく起こります。例えば1つの施策について、話をする時にある人は財政的な観点から意見を言い、ある人は住民感情的な部分の意見を言い、又ある人は過去の経緯の意見を言い、と言った具合になるときです。1つの議題を議論する時に様々な観点(議論の切り口)がありますがそれを整理し総合点での評価を出し、その上で判断を下していく必要を感じるところであります。

これからも勉強の日々だなあと感じる今日この頃です。