原点を見つめて 「お任せ主義」からの脱皮
お任せ主義
地方分権社会の到来を受け、活発化した市町村合併論ですが、このところの議論はその核心部分が抜け落ちた傾向にあるような気がします。これら一連の改革の表裏として大切なのは実質的な運用の改善(法改正等)と、もう一つは、自分たち自らが問題意識をもって課題を発見し、自分たち自らの決断と行動でその課題を乗り越えて行くという意識の醸成であると考えています。このことは、国と地方、官と民、個人と公を問わず、日本のあらゆる分野において必要なことであり、社会性に根ざした自主性や自立性が求められいるといえます。
憲法第8章には地方自治の原則が定められていますが、戦後の日本社会では、アメリカやヨーロッパを目標とした経済復興を目指し、上意下達による中央集権的手法で、日本全体がほぼ同じ方向を向いて動くことが効果的であったといわれ、戦後50年近く、日本の自治体では、自治本来の機能を発揮しする必要性があまり感じ取れなかったいえるでしょう。
しかし、こうした風潮の中では、それぞれの場面・立場においての自主性や自立性・主体性が育ちにくいといわれています。この依存の中では、地域の課題や将来について、きちんとした議論をする必要もなく、逆に議論はわずらわしいものであり、困ったことが起こり、問題が発生した場合には、誰かがどこかでうまくやってくれるという「お任せ的」な問題処理が、これまでの実態だったとも指摘されています。しかし、近年の時代のうねりを乗り越えるためには、いわゆる「お任せ主義」からの脱皮が「自立した地域づくり」の大きな鍵となるでしょう。
お任せ主義からの脱皮
ただ「お任せ主義」からの脱却と唱えても一長一短に事が解決するものではありません。
これまでの地域づくりの多くがお任せ方式で進められてきた背景を、レストランに例えられた話があります。レストランにはメニューがあり、お客さんはそのメニューを見て注文をします。しかし、メニューのないレストランでは、何を注文すべきか判断がつきません。メニューのないレストランでは、つまり地域の現状はどうなっているのか?課題は何か?解決にはどんな手法があるのか?また、首長、議会、職員の力量はどうなっているのかなど、ものごとを判断するための材料があまりにも少なく、まさにメニューのないレストランがこれまでであったという話です。
まず、地域にまつわる現状や課題をしっかり捉えることが大切です。これは、行政・議会・住民それぞれにいえることですが、地域にまつわる現状や課題をしっかりと捉えないと、地域の将来像や問題に対して、無関心であったり、あるいは問題の本質を捉えない我田引水的な苦情、要望がクローズアップされる傾向もがあります。この傾向の理由として、私がこれまでの活動を通して感じていることは、いろいろな方とお話をする中で、「○○はどうなっているだ」「○○らしいぞ」ということをよく耳にします。この言葉に象徴されるように、施策や財政状況など、行政の課題、方向性、取り組み、状況などについて必ずしも的確に町民には伝わってないということ、また、何かをしたくてもその具体的な手法がわからないといったことです。これは、行政と町民のコミュニケーションの不足がもたらす問題だと考えています。(H12年の9月議会ではこんな質問・提案をしました)(平成13年4月1日からは情報公開条例が施工されました)
中央集権的な手法によってある一定程度の社会基盤が確立されたことと、地域課題が複雑化、重層化している今日は、お任せ主義だけでは地域に暮らす喜びや誇りは得られません。財政問題と景気対策に象徴されるように、個別の課題どうしが絡み合った状態で、何かを解決すれば何かが悪化するという厳しい選択が多くなってきています。施策における財源の手当も現在のような財政状況では、何かをやれば逆に何かを減らさざるを得ないといったこともあります。
お任せ主義では、こうした選択や判断は難しく、無責任な批判だけが横行するいったことが懸念されます。これからは、情報の共有と施策の協働がキーワードとなると考えています。
しかし、私たちの町においては町民が主体的となった行政運営が仕組みやルールとして確立しているわけではありません。町民の満足や実感が得られる地域づくりをしていくには、コミュニケーションと参加の仕組みやルールをつくり、それを保証していくことが重要だと考えます。
偉そうな事はいえませんが、戦後急速に発展してきた日本の社会には、人間にとって真の価値とは何かを忘れてしまった感があります。今後は、地域における価値や文化を見直し、これまで費やしてきた多くの財やエネルギーにふさわしい「真に誇りの持てる地域づくり」を模索する必要があると感じています。