論より実践、そしてチームワーク
論より実践
茶の間にまでどびこんでくる社会現象ともなりつつある様々な問題に心を疼かせながら、それでも自分に何か役に立てる事はないかと模索している人たちがいる。
立派な言葉や理屈でもなく、ただ単純に言えば「人と人が理解と共感と行動で結ばれるような社会」でありたいと願っているのである。
私達が社会の疑問や批判に耳をかすときは、実は現場の状況や実践をはなれて立ち止まっているいる時の方が多いと感じる。傍観者的な考察の中で、物事を理解した気になって偉そうな講釈を述べるのは慎まなければと反省もする。
様々な現場から上がる声は、傍観者的考察ではなく実践的考察であって、常にリアリティーをもっている。それはそのはずである、現実にそこで起きていることを伝えているのだから・・・。
その話は天下国家を論ずるような景気のいいものではない。しかし、どんなささやかないとなみであっても、それを「やっている」「実践している」という強みがある。実践の中から生み出された考察が、地域の人とのかかわりの中で確かな声となり、地域の施策をゆりうごかすものとなる。ボランティア等の活動は、現実の社会の欠陥を補完しようとする実践的な努力の中から発生しているものが多い。
地域活動の実践の中で身もだえしながらも考えなくてはならないことは、それらの活動は単なる施設や補助体制の整備といったことで全てが解決できるものではないことである。
地域活動の原理は、それに携わる人間そのもの(全人格的な)の交流の中で、たとえどんなに素朴であっても、たとえどんなに些細なものであっても、関わる人たちのお互いの人間性が成長していくという深まりの中で、活動の方向が日に新たに力を増していくことが大切だと考える。
チームワーク
地域活動において様々な地域課題を整理し役割の分担するという、いわゆる合理的なネットワークの形成も大切だと思う。しかし、分担の中でただ責任体制を明確にしていくことに終始し、分担と分担との間に隙間風が吹き込んで、せっかくの心が冷え切ってしまうというのはさけなければならない。
例えば、大学は高校が悪いといい、高校は中学が、中学は小学校が、小学校は幼稚園が、幼稚園は家庭が悪いといい、そしてとどのつまりは社会が悪いという。これではすべて責任のなすり合いにになってしまい、社会性とかチームワークといった姿は浮かんでこない。まるで寄木細工のようで全体に血が通わない。それぞれの目的は共通のはずであるのに個々の間は砂漠のように乾ききっている。これは、避けなくてはならないと思う。
世の中の仕組みについて合理化・効率化が追求されている中で、社会や人と人の関係が寄木細工のようなもろさを露呈するという危険性も感じる。「チームワーク」なんて言葉も日常的にはあまり使わなくなった言葉であるが、今一度大切な言葉として心にとめて置きたいものである。