若者について考えるP-1
「先生、あの人も診てもらえませんか」
国立精神・神経センター・精神保険研究所の吉川武彦所長は、阪神大震災の後、被災者の心のケアのために現地に入った。しかし、実際に相談や治療を、より必要としたのは被災者ではなくボランティアで集まった若者達の方だった。
「復興が進み、仕事がなくなってしまった」「助けにきたつもりなのに、被災者の方が自分よりよほどたくましい」端からみるとたわいのない理由で彼らは自信を失ったり、燃え尽きたように落ち込む。「共通しているのは、人間関係のつくり方が下手で、精神的にもろいこと。子供だけなく20代、30代の幅広い世代まで、ほんのささいなことで”ゆううつ”状態になってしまう日本人が確実に増えている」と吉川所長は話す。
戦後の出発点だった教育の平等思想は、子供に能力差があるという事実をタブー視してしまった。どの子供にも無限の可能性があるという理想が学歴信奉でゆがめられ、勉強ができないのは努力が足りないからだと、子供達を追い込んできた。昔のいい子は親の前では優等生でも、親の知らない子供の世界ではただの子供に戻れた。今のいい子は常に大人の目の届くところにあり、子供らしさが完全に窒息しているように見える。
他人との横並び感覚の中で少しでも先に立とうと努力し、より早く、より大量のモノを効率的に生産することを目指す。戦後教育のあり方は、高度経済成長を支えた日本の社会そのものの発想と重なりあう。
(日本経済新聞社発刊 「2020年からの警鐘」より)
「横並びの一線上に自分がいないと落ちつかない、他人にどう思われているかが非常に気になってしかたがない」ある青年はこんなふうに語る。そして「一度でもドロップアウトしてしまうと、二度とそこえは戻れない」という怯えを抱えている。だから、他人と関係を結ぶ、作業が緊張してしまってしかたがないのだと思う。相手との距離をどう取ればいいのか分からないから、悩みはじめ、たちまち自信がなくなってくる。
雑多な中で、人からモノを学ぶという機会に恵まれなかった青年は、雑誌などからそれを学びとろうとする。暮らし方から、たちふるまいまで、全部教科書に頼ろうとする。そして、そのようにやってみるがうまくいかない。当然である。人は人でしか学べないからである。
たとえば、〇〇という雑誌を読んでダメだった場合、どこへ行くか、何となく心が傷ついてまた違う雑誌を読みたくなる。そこには、やさしさとか友達に好かれる人とかいうテーマに魅かれる。でも、これにも裏切られる、今月号は「やさしい人」と思ったら、翌月は「太っ腹な人」とかに変わっているじゃないか。「そんなにコロコロ変われるもんじゃないよ」とつぶやいたりする。
人間関係の「間」というのは、人と人が群れることで学びとることができる。雑多な人間関係の中で、人を傷つけてしまったり自分も傷ついたりしながら、自らの感覚を磨き上げていくのだろう。ともすると、子供達が成長していく過程の中で、この「群れる」という行為は、善というより悪ととらえられていないだろうか。いわいる「オイ、そこでなにをやっているんだ」「そんな暇があるならもっとほかにやることはないのか」と。
群れた経験がないと、人間関係の曖昧さや、人との距離感がつかめない。人とせめぎあうこと、おりあっていくこと、お互いさまでつくり上げる世界がイメージできない。ケンカして仲直りということがわからない。ケンカしたらそれは決裂で、どうやって関係を修復していったらよいのかわからない。したがって、社会や自分自身に対して非常に臆病になってしまう。こんな状況の中で「引きこもり」というような現象まで生み出しているのではないだろうか・・・・。